2014-10-07

表現の欲求

実は10年前に初めて書き始めたBLOGのタイトルは「表現するために」でした。
自ら、最も興味のある「表現」ということについて、日々感じたことを様々な視点から、いや、悪く言えばでたらめな観点から感情の赴くままにすべて書いていたのです。

「表現」は人間の根源的な欲求だと思っていました。厳密にはコミュニケーションの一方を示す言葉ですが、受け取る側がなければ成立しないという意味で、むしろコミュニケーションという意味で根源的な欲求であると。

では、なぜコミュニケーションではなく表現なのか、それは、主に受け取り側が大衆である場合を想定していたからです。当時、インディーズのJ-POPアーティストのそばにいてミュージックビデオやライブ映像を制作する活動をしていたので、そんな環境から得られる話題を中心にしたということでもあります。

もちろん、映像だって不特定多数を相手にするものを制作していたのですから、自分自身の表現欲についても当然のことながらそこには含まれていました。

アーティストにせよ、役者にせよ、映像制作にせよ、大衆に向けての表現活動にある根源的な欲求というのは、1対1のコミュニケーションとは違い、大勢の人に認められたいという強い承認欲があると思います。

他人に認められることには、脳にとてつもなく大きな快楽をもたらすことが知られています。その快楽を一度知ると、それは強烈な麻薬同様に再度得ようとする、つまり、人間の行動を支配してしまうのです。これに逆らえる人はなかなかいないのではないでしょうか。

更に、そんな行動は麻薬と違って基本的には人に迷惑をかけません。人に褒められたいのだから当然です。


ところで、唐突ですが人はなぜ存在するのでしょうか。人はなぜ生きるのでしょうか。
そして、そのことと表現欲との関係は?

結論からいうと、どうも人が生きる目的と直接的な関係はないのではないか、と思うようになりました。
コミュニケーションが不要だといっているのではありません。人間は他人と一切関わらずに生きることはできませんから、どんなものであってもコミュニケーションは必要です。でも、当然ながらそれは手段に過ぎません。

人との愛を育むためにもコミュニケーションは必要です。苦しみに耐えるときだって、人の助けが必要です。

だけど、大衆に向けての表現やコミュニケーションで愛が生まれることは希だと思うし、歌に助けられるほどの苦しみはそれがなくても乗り越えられるものが大半だったりするのではないかと思うのです。

大衆に向けての表現は通常娯楽でしかないのではないかと考えます。
もちろん、だからといって不要であるとか、重要ではないということでは決してありません。

しかし、そのような表現をせずとも幸せに、あるいは苦難を乗り越えて生きている人も大勢いるといこと、そして、そういった一見平凡な人生を歩むことも立派な人生である、いや、むしろそんな人生の方が立派ではないか、とさえ考えるようになりました。

この考え方はまたすぐに変わってしまうかも知れませんが、書いてみました。


0 件のコメント:

コメントを投稿