2010-08-13

PVの編集は誤解の宝庫

一般的に映像の編集作業は、映像制作全体の中心的な作業とされています。
ただ、これは撮影作業以降、映像というデータを取り扱う範囲に限定した場合の話です。
映像で何を表現するのか、その中身を考える作業を含めた場合は違ってきます。

たとえば映画やミュージックビデオの制作の場合、実は撮影作業の前に8割以上の創作活動を終えている、いや、そうあるべきだと考えていますし、時間がかけられれば実際にそうしてきました。
つまり、撮影時においてはすでに設計、イメージされた絵を形にするための素材作りといった趣になるのが本来の姿だと思うのです。

もちろん、これは映像のジャンルが違えば当てはまらないこともあります。
しかし、今日はミュージックビデオに的を絞ります。


ミュージックビデオ(MV)、これはプロモーションビデオ(PV)ともいわれますが、多くの場合もっと自由でいいはずなのに、世の作品は暗黙のフォーマットに従っているものが大半です。
J-POPでは主にリップシンク(クチパク)、ダンス、ストーリーショット、イメージショットをちりばめている等の決まり事があります。また、ほぼ1曲で1映像作品となっています。

編集は音楽のリズムポイントに合わせてカットを切り替えたり、わざとそこを外してみたり、長すぎず短かすぎずのカット、そんなバランス感覚を中心に行われます。

コンテンツは歌詞からある程度のストーリーを読み取ってそれを彷彿とさせるシーンをその歌詞の近くに配置するなどすれば様になります。

そんなこんなで編集をすればそれらしい作品は比較的容易に作成できます。


でも、残念ながら以上のようなことだけではさほどいいものができるとは思えません。
もちろん、楽曲がつまらなければどうあがいてもそれなりの映像にしかなりませんが、音楽をとことん感じ、いいところを引き出して増幅させることができればその限界を超えられる可能性は常に秘めています。

限界とは何か? 何を超えるのか?

つまり、暗黙のフォーマットをぶちこわすような必然性が生まれることで、ありきたりな映像の枠を超えることができるのではないか、ということなのです。


そのためにはいろんなことを疑ってかかり、自分の感覚で判断し直すことが必要です。
そしてその感覚自体も視野を広げることが重要です。


実は、映像に関わる人たちのテクニックの多くは誤解で成り立っているのではないか!?

と、最近思いました。
これはちょっと挑戦的な発言かもしれませんが、つまり、その人たちは先人たちの作品を見てその本意をくみ取れずに表面的な現象のみを捉え、その映像表現の意味を取り違えてしまっているのではないか、ということなのです。

たとえば、
今NHKの大河ドラマ(2010年放送「龍馬伝」)が人気ですが、その映像はフィルムライクであるという単純なものではなく、更にそれを超えた内容を正面からとらえて考え抜かれた質感で、それは確かに優れていると感じています。しかし、他局の現代ドラマにおいても間違いなくあれを真似たような質感を作り上げたものを見てしまいました。僕はすぐにそれがひどく安っぽいものに感じられましたし、その映像の質感に必然性があるとは思えませんでした。

この映像表現の誤解は、とても安っぽいセンスや感覚により引き起こされたもののように思えてなりません。

しかしながら、自分もそれと同じミスをどこかで犯しているかもしれませんし、ミュージックビデオはそんな誤解で満ちあふれているという気もするのです。もっといえば、それが映像の文化にさえなってしまったジャンルなのかもしれないと思うのです。


僕は、映像を手段として創作をしたいのですが、明らかな誤解を信じ込んでいる人たち(素人ではなく)が比較的多いことに最近気がつき、僭越ながらむしろより説得力のある創作を行わなければならないという指命をもらったような気になりました。

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