2017-12-16

忘れられた合理性の追求(4)

(つづく)

ところが、この数量的な規約を実践しているプロジェクトに遭遇してしまいました。

一体どういうことなのでしょうか。生きた化石でしょうか?
これは中世の魔女狩りを現代になってもそのまま続けているようなものです。信じられませんよね。大変恐ろしい事態です。
でも、本当にあるのですよ。

生きた化石といえばシーラカンスが思い浮かびますが、絶滅が危惧されています。非常に限られた環境でしか生きられないからだそうですね。奇跡的にそういった環境が残っていたから1億年も生き残ることができました。

彼らも同じかも知れません。非常に限られた特殊な環境だからこそ存在できているように、僕には見えました。一歩外に出てしまえば一瞬で滅びてしまうでしょう。しかし、彼らはそこが世界の全てだと信じている節がありました。オブジェクト指向の存在くらい知っているだろうに、そういったものを学んだ形跡もないし、学ぼうともしていないように感じられました。

C言語のお仕事、ということでしたが、今の時代あえて純粋C言語を使う理由はいったいなんなのか、ある意味楽しみにしていました。C++ではパフォーマンスに影響が出る、非常に繊細かつ厳しい処理速度に関するミッションクリティカルな要件があるのだろうか、と考えていたからです。
現実的に、C++がCよりパフォーマンスに劣ることはほぼあり得ません。C++はCを含んでいますから、そういった処理の部分だけ、C++のVテーブルを使わない様なコーディングをするなど、制御可能なわけです。Cと同じようにインラインアセンブラだって使えます。だから、あえてC++を捨ててまで純粋C言語を使うことの必然性に興味深いものがあったのです。

違いました。彼らはC++が使えないだけでした。_| ̄|○

既に、オブジェクト指向も成熟期を迎えて久しく、更にその先の模索も始まっている世の中にあって、この乖離はいったいなんなのでしょうか。

しかも、

外から来た人間に対しても、彼らは自分たちが一番優れているといった態度で接してきます。まるで情報操作をされて、そこがICT世界の全てだと信じ込まされているかの様でした。某独裁国家の一般市民のようです。

なので、当然ながら外から来た人間になにかを学び取ろうという発想も全く感じられませんし、自分たちの理解できない部分の存在を隠しているようにも思えました。
ひょっとしたら、外から来る脅威に対して、わざと足かせをして自分たちと同じ、あるいはそれ以下に貶めていたのかも知れないとさえ思えてきます。

残念ですが、こういった邪推のようなことはいくらでも出てきてしまいます。そうでもしなければまったく理解する余地がないからです。それほど酷いことが行われていたということです。当然、ここに書いたことはほんの一例に過ぎません。同じような足かせは随所にありました。

このことによる本質的な問題はなんでしょうか?

(つづく)

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