2018-01-08

奇跡 V.S. 偶然

僕が小学1~2年生の頃、同じ団地に住む同級生の女の子のお父さんが突然亡くなった。

このくらいの子どもは、死というものをあまり深刻に受け止めないようなところがある。大人のようにその後の諸々を考えて悲しみにうちひしがれることがない。

お葬式を午後に控えた朝、小学校に向かいながら女の子と見た光景は、女の子の住む団地の部屋から空に向かって雲が道を作っていたことだった。少なくとも、僕らにはそう見えた。そして、「きっとちいちゃん(女の子の呼び名)のお父さんはあの雲の道で天国に行くんだね」と、おとぎ話をするときのような、ちょっとワクワクするような気持ちで会話をした。


8年位前、母の義理の兄が亡くなった。葬儀の帰途、母は実の姉らと共に大きな虹を目撃したそうだ。母は、お義兄さんはあの虹の橋を渡っていったんだね、という話をしたらしい。
この話はその数ヶ月後、母が入院していた病室から虹(写真)が見えたときに語ったものだった。その晩、母は亡くなった。母自身も見たその虹で、誰かがお迎えに来たのだろうか。



僕はこれまで、誰かが亡くなって、その人の家から天国に繋がる雲の道を、他にも2度くらいは目撃したと思う。


これらは奇跡だろうか。あるいは、単なる偶然なのだろうか。

母が亡くなった日に虹が現れたことをとある知人に話したことがある。単なる偶然だと否定した。その知人は当時までは友人だと思っていたが、そうではなかったのかも知れない。医師で人の死が身近すぎてむしろ人の命に鈍感だったのかも知れないし、医療技術や科学は完璧だと奢っていたのかも知れない。

しかし、偶然であることは奇跡の対義語ではない。その知人は明らかに奇跡を否定する意味で偶然という言葉を用いた。その知人に限らず、奇跡と偶然を対義語として、あるいは、奇跡を否定する意味で使っている人は多い。

実際は、奇跡と偶然は同質の事実を伝えている。立場や見方によって使われる言葉が違うだけだ。奇遇、という言葉もある。

変な喩えだが、光が、観測の仕方によって素粒子のように見えたり、あるいは波の様に見えることがあるのと似ている。(見えるといっても、実際に直接肉眼に映るというわけではない。観測により素粒子や波の特徴を科学的に捉えることができるという意味だ)

では、偶然と必然でははどうだろうか。これも見方の違いではないだろうか。ただし、この場合必然と判断するためには、偶然と見なすよりもより広範囲の視野で注意深く見る必要があるだろう。

上記の奇跡も、ある種の必然性を訴える言葉でもある。であるならば、視野を広げ、そう見える人の立場や心に寄り添ってもう一度事実を見直してみなければ、その本質を見る事はできないのではないだろうか。偶然という心ない言葉で否定する前に。


追記:


他にも妙な言葉や概念の対比を行う人は多い。芸術 v.s. エロ、はその代表格だ。全く無意味な対比で、エロを表現する芸術は多数あるし、エロでも芸術でもない表現娯楽も多数ある。全く無意味で下らない論争だ。
この論争は、エロな絵画を高尚な美術館に展示するのはけしからん、みたいな文脈で使われることが多い。そして、芸術なら許されると。
しかし、エロティシズムを芸術と言われるまでの高度な技法を使って表現するなら、安っぽいエロよりもずっと性的欲求を喚起する。むしろその意味では危険なのだ。


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