2018-08-09

量子論と霊の世界

「霊の世界を信じますか?」


うさんくささが先に立つこの問いは、実際とても曖昧でいろんな意味を含んでいるし、霊感商法といった闇の世界から、宗教や死者への尊厳の問題まで広く及ぶので、簡単に答えなど出せるはずはないだろう。

理化学系に属する人たちの中には、即座に非科学的であることを理由に否定する人がいる。
科学で解明できないことは全て否定するといった低次元な理由が大半だろうが、中にはあと何年もすれば人間が存在する理由も全て科学的に証明できると豪語するどこぞの大学の教授のような人物もいる。火の玉をプラズマで再現して見せて、調子に乗ってしまったのだろうか?(テレビのバラエティ番組内での発言を真に受けることもないとは思うが)

ヒッグス粒子の存在が証明された頃、それをきっかけに素人向けの量子論や量子力学の本を何冊か読んでみた。とても楽しかった。
それまでも、光が波の性質と粒子の性質を併せ持っているだとか、アインシュタインが量子論に反発するも、相対性理論の次に、それを度台にして発展した物理学なのだろう、ということは何となく知っていた。

素人向けの量子力学の説明では数学を使うことができない。そのため、比喩に頼る傾向があり、そしてそれが必ずしも適切でない場合も多々あるようだ。しかし、数学を使わず、僕のような素人にもその本質を伝えようとする本もあった。
そんな本に助けられて、量子論のおもしろいところだけをかいつまんで楽しませてもらったと思う。

そんな浅い理解でも、自分なりに考え、気が付くこともある。

たとえば、有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験があるが、僕はこの思考実験の本質とは別に、観測が観測対象に及ぼす影響について思い当たった。
通常、物理の実験では観測そのものが対象(結果)に影響を及ぼさないといった前提がある。
ニュートン物理学までの実験では、厳密には影響を及ぼしたとしても、それが無視できる程小さいので問題はなかった。
しかし、相手が量子になると、影響の度合いが100%、あるいはそれを超えてしまう。なので、非破壊検査はできないと言っていい。
(見る為に光を当てれば、対象がその光により変化してしまうといったようなこと)

つまり、観測を行うことそのものが、実はもっと本質的な「何か」なのではないか、という考えに行き着いたのだ。飛んでいる蚊を観測するためには、必ず叩き潰さなければならない世界なのだと。

これは、観測=対象に変化を加える、ということ。「シュレーディンガーの猫」も、猫の入った箱を開けたときに死んでいる、あるいは生きているの2択なのだが、開けない限りは死んでいるとも生きているとも言えない、という状況なのだ。いや、実際には死んでいる、とか、実際には生きているがその情報が伝わっていないだけだ、というのとは違う。箱を開けた瞬間に決定するという思考実験だ。つまり、箱を開けるまでは、猫は死んだ状態でもあり、生きた状態でもある、ということらしい。
しかし、実はこの話には何の矛盾もなく、箱を開けることによって猫に影響を与える、ということが本質なのではないか、と考える。観測が対象に影響を与える、ということを理論に取り入れるべきではないのか、ということだ。実際、どのような観測方法をとったとしても、素粒子を対象とした場合、それに影響を与えてしまうことは、おそらく数学を使って証明できることなのではないか、と思うからだ。

非常に観念的で現実味の無い話に思えるかも知れないが、物の最小単位である素粒子はそんな世界なのだ。

この、観測が対象に与える影響という点については、まだまだ考慮すべき点があると思う。ただ、思考実験のように観測自体が無影響であるという前提自体が無意味ではないのかな、ということが言いたいのだ。
ただ、物理学者はこんなことは当然すぎて問題にしていない可能性の方が高いとも思う。

そして、もっと抽象的で漠然とした考えにも行き着いた。今の量子力学、量子論はまだ完成していない、発展途上であることは誰もが認めるところではあるが、現時点でこの理論は非常に複雑、いや、必要以上に複雑すぎるという点だ。まるで、天動説を元にして天体の動きを説明しているかのようだ、と感じたのだ。あまりに、例外が多すぎる気がする。一本筋の通った、美しい理論とはほど遠い。
天動説では複雑怪奇だった天体の動きは、地動説の発見でとてもシンプルになった。

量子論は、まだ天動説でしか説明できていないように思えるのだ。ひょっとすると、数ある理論の中には、地動説に限りなく接近しているものもあるのかも知れないが、まだそこには至っていないというのが現実であろう。

天動説から地動説への革命的変化のようなことが、量子論にも起こらなければ、現在謎とされている事の全てを説明できる日は来ないかも知れない。しかし、ひょっとするとそれは人間には永遠に解けない問題かも知れないが。


そんな謎が解明されれば、ひょっとすると宇宙の存在理由も判るのかも知れない。そしてその頃になれば、霊であるとか、魂の存在であるとか、必然的に解明されている可能性もある。

そんな考えの1つのきっかけは、「量子のもつれ」という現象だ。説明は省くが、この現象では情報が光の速度を超える。距離には関係なく、瞬時に伝わるというものだ。現象は知られていても、理屈は解明されていない。

たとえば、これは無いとは思うのだが、人間などの脳がこの現象を利用して情報伝達が可能だったとすれば、テレパシーが従来の電磁波などによるものと想定した観測方法で感知できなくても当然なのだ。まぁ、これはいかにも素人が考えつきそうな話ではある。

しかし、目に見えるものしか信じようとしない現実論者が見ているものは、いったい何なのだろうか、という考えに飛躍した。彼らは量子論を知らないし、知ったとしても宗教のように単なる絵空事のようにしか感じ取ることしかできないのかも知れない。
しかし、この世界の大元は、そのような人間にとって観念的でさえある物理世界によって成り立っているのは、現実なのだ。

そうした物理的な世界において、宇宙の存在理由でさえまだ何も判っていないのに、増して、人間の存在の、その奇跡の度合いは計り知れないものがあるということなのだ。つまり、我々が見ている現実は、奇跡の中の奇跡なのだ。人間が存在するのだから、霊の存在が現実的だとか、非現実的だといった議論はほぼ無意味に思えるのだ。
何の意思もなく、自然に、勝手に人間が存在することなど、僕には全く考えられない。
人間はそれを神と呼ぶのだろうが、それは量子論をはじめとする物理学の延長にあるものののはずだ。

その宗教ではない神が、人に隠し事をしていて、しかしそれが隠しきれない何か、それが霊的な現象として認知されているのかも知れないと思う。

霊的な体験


奇跡と偶然は相反することではない。

たとえば、ある夜に急に亡くなった人が、昼間現れた虹を見舞客と一緒に見た。その虹を見て、「親類の葬儀の帰途にも虹が出て、あれを渡っていったのね」、という話をし合った事を思い出し、見舞客にその事を伝えていた。

この昼間の虹は、単なる偶然だろうか。あるいは、奇跡なのだろうか。

虹を見た夜に亡くなった人の事を知らなければ、偶然ですらない。知っていたとしても、見舞客なら奇跡だと感慨をもつだろうし、他人の感情に寄り添えない立場ならただの偶然で片付ける。見方の違いだ。

仮に、昼間の虹を見せたのが霊的な人間以外の意思だったとする。であれば、その「意思」は偶然を装い、数学的に、物理的に矛盾がないようにうまく装って虹を発生させるに違いない。

だから、偶然と奇跡は見方によって違うだけだ。光が、粒子の性質と波の性質という、相反する性質を併せ持っているのと少し似ている。


実は、上記の虹を見た夜に亡くなったのは僕の母であり、見舞客は僕と母の友人だった。

亡くなった後も、母の事で親類で集まりがあったとき、天気はずっと雨だったのに、みんなが目的地で車を降りる頃には雨が止み、建物の中にいるときは雨になり、また車に戻る時間になったらまた止んだ。雨はけっこう激しかったから、傘を差さずに済んだのは助かった。
母は医大に検体をしていて、3年を過ぎて火葬になった日も、その前後はずっとずっと雨続きだったのに、その日だけ晴れた。その日ももちろん親類や友人など母の縁者が集まった。

この天候に関しては、僕には単なる偶然には思えない。


夢の話もある。昔、世話になっていたクラシックギターの先生の夢を、ある日唐突に見た。何のきっかけもなかったし、最後にお会いしてから30年は経っていて、とても気になってしまい、ネットでいろいろ探してみたが情報は得られなかった。1年位して、またその先生の夢を見て、またネットで検索すると、最初に夢を見た一週間前くらいに亡くなっていたことが判明した。49日が過ぎるまでは亡くなったことは公表されていなかったらしい。このことは日記を付けていたので、はっきりとしている。

他にも、親戚が亡くなって、やはり一週間以内くらいにその人の夢を見たこともあった。

天候などとは違い、夢という曖昧ではあるが、その人個人だけに係わる現象だから、あちらの意思が伝える手段としては簡単なのかも知れない。

宗教


偶然は、見る人や立場によって奇跡になる。同じように、人間にとって不可解であったり、科学的に説明できない現象も奇跡だったり、神の御業だとか、祟りだとか解釈される。
宗教の多くは、その解釈を人間の想像力で膨らませたものだと言っていいと思う。信じる人にとって、それは事実と同じなのかも知れない。

しかし、過剰な解釈は人間の都合や欲に利用される。人々をコントロールしたり、金儲けだったり。
だから、僕は大方の宗教に深く加担しないように気をつけている。

しかし、一方では、多くの人が何かを一心に信じることで、「何か」に影響を与える可能性を否定できないでいる。本当かどうかは僕は疑わしいと感じているが、量子の原理を使ったランダム数発生装置が、大勢の人の活動によって確率が偏った、という実験があるようだ。この実験の前提となる環境は客観性に乏しく、甚だ疑わしい部分もあると感じてはいるが、事実だとすれば非常に興味深い。
いずれにしても、人の精神的な活動が物理的な影響を生む可能性は否定できないと考えている。それが、宗教活動の一部において、リアリティーを持たせている可能性があるのではないか、と考え、僕は真面目に神社でお参りするようになった。
以前は、神道に対して胡散臭い占いと同レベルでしか向き合っていなかったように思うが。



まだまだ、漠然とした結びつけしかできてはいないが、量子論と霊は、案外近しい存在なのかも知れない、と考えている。


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