出来事
奇跡のシール! |
2017年10月、休みを取って行ったのは僕が6~18歳に住んでいた団地の部屋でした。
団地は社宅(みどり社宅といいます)で、今年夏頃までに住人は全て退居、まだ具体的な時期は決まっていないとのことでしたが、事実上取り壊しを待つのみの状態になっています。
場所は神奈川県の寒川町。僕にとっての故郷です。
ふるさとは遠きにありて~ といいますが、実は現在ここから車で一時間もかからない場所に住んでいます。ここ数年、毎年9月に寒川町にある寒川神社にお参りに行っています。その帰途、いつもこのみどり社宅を見ていました。まだ人が住んでいるかな、と、チェックしていたのです。
すると、今年はなんと出入り口などが全て封鎖されていて(写真の通り)、無人になってしまったことがすぐに判りました。衝撃を受けました。
およそ築50年になりますが、頑丈な鉄筋コンクリートの建物で、おそらくメンテナンスが行き届いているだろうから、まだまだいけるはずと思っていました。
でも、時代の変化がそれを許してくれなかったのでしょう。
すぐ近くに新しい高速道路(首都圏中央連絡自動車道)やそのインターチェンジ(寒川北インター)もできて、土地の利用価値がうんと高くなったはずです。それに、とても古い形式の建物で利用したいと思う人はいないでしょうから、取り壊しは自然の流れのようにも感じられました。
しかし、自分にとっては人生の最も重要な時期を過ごし、無数の思い出の詰まったかけがいのない場所であり、建物なのです。もし、今の自分に帰る場所があるとしたらここ以外には考えられません。
退去して40年近く経った今でも、夢に見る住居はこの部屋がアレンジされた間取りのことも多く、自分の中に深く深く刻み込まれています。
父の転勤が多かったのは会社の施設担当だったからだと思います。しかし、それ以上に転居が多かったのです(同じ工場で働いている間も何度も転居しました)。
- 生後1ヶ月から山口県岩国市(団地形式の社宅)
- 生後7ヶ月から神奈川県茅ヶ崎市の香川へ(平屋住宅)
- 1歳と8ヶ月から同茅ヶ崎市の本村(平屋住宅)
- 3歳と3ヶ月から神奈川県寒川町の2階建ての社宅(ひかり社宅)
- 6歳頃、今回の4階建てのみどり社宅に(同寒川町)
- 18歳頃、父が単身赴任になったため母と寒川町内の平屋住宅へ
これ以後、僕は独立して家族とは別々の暮らしになりました。
これらの建物について、全て確認しました。
岩国市の団地の公園と建物(風呂無しの古い作り) |
岩国市の団地内の公園と雲工場 |
結局、子ども時代家族で過ごした建物で現存するものはみどり社宅だけということが判明したのです。
そして、毎年みどり社宅が残っていることで、いつもどこかホッとする想いがあったのですが、それもとうとう終わりを迎えることになってしまいました。
叶った願い
思い出はたくさんあるのに、部屋の中の一部分についてはどうなっていたのか思い出せなくなっている悔しさもありました。当時部屋の中で撮った写真は数枚しかなく、記録はほとんどありません。
今年は思い切って現在の住人に中を見せてもらおうか、などと考えることもありました。ところが時既に遅く、廃墟となっていたのです。
そこで、駄目だろうと思いつつも精一杯の気持ちを込めて会社のHPからメールを出しました。
何日か経って、なんと返事が来たのです。平日なら対応できるとのことでした。
寒川町の工場の総務の方からで、電話をするとその方のお父様も同じ会社に勤めていて、ひょっとしたら僕の父とどこかで会っていたかも知れない、という話になりました。
それにしても、全く一文の得にもならない話なのに、お仕事の時間をわざわざ割いて頂き、部屋を見せて頂けることになったのです。
これほどありがたいことは一生のうちに何度もあるものではありません。感謝しても仕切れない気持ちでいっぱいです。
紛れもない僕のうち
風呂場の中の構造については忘れていた |
退去して約36年、その間に何人かが入れ替わりに住んだはずです。それに、当時鉄でできていた窓枠はアルミサッシに替っていました。
だから、もしかするとよそよそしく感じられるかもしれない、と思っていたのですが、部屋に入ってみるとまったく他人の家に来た感じはなくて、自然に心に溶け込むようでした。ここは、自分の家、自分の部屋なのです。きっと、何年も実家を離れて暮らした人が久しぶりに実家を尋ねた時の感覚といっしょだと思うのです。
離れている間に少し変化したところがあっても、やっぱりそこは「自分ち」なのです。
筆舌に尽くしがたい想いに溢れます。できることなら僕の最後はこの部屋で迎えたい、と、今でも思うくらいです。
部屋が僕を出迎えてくれた!
36年間、僕を待ってくれていたシール |
部屋が僕を待っていてくれた。
そう感じたのは、僕自身が貼り付けたシールがそのまま残されていたからです。おそらく小学校の低学年の頃、毎月買ってもらっていた雑誌の付録のシールではないかと思うのです。ここは玄関の一部で割と目立つ場所ですから、住んでいる間もずっと目に入っていました。
僕ら家族が退居するときも剥がさず、そして36年もの間、誰にも剥がされなかったシール。奇跡としか思えません。まるでタイムスリップして当時の部屋に戻ったかのようです。
僕が来るのを知ってくれていたかのようでもあります。
部屋を開けて頂いた総務の方も、これには驚いていました。
このシールはこのままにして、部屋を後にしました。もう二度と訪れることのない、最後のお別れです。妙なたとえですが、火葬場で肉親を送るときの気持ちに少しだけ似ていました。
それは、悲しみよりも虚無感に近いものです。でもそれだけではなく、部屋に迎えられた喜びもあって、しばらくは複雑に感情が入り交じっていました。
思い残すこと
もちろん、もしこの部屋に取り壊されるまで住んでいい、と言われたら喜んでそうします。もしまた見に来てもいいよ、と言われたら何度でも尋ねます。何しろ、この部屋で最後を迎えたいくらいなのですから。
でも、もうそんなことは起こりえません。やや痩せ我慢もありますが、自分が死ぬときに思い残すこと、それが1つ解消された想いです。
もし、こうして部屋を見ることなく、いきなり取り壊され、自分の知らないうちに消えてしまっていたとしたら・・・自分に対する遺恨に苦しめられる人生が待っていたかも知れません。
自分の一生を左右する、とても大きな出来事で、本当にありがたいことだと感じています。
最後に
この記事の写真ほど主観と客観で価値の異なるものはないかも知れません。
赤の他人には本当につまらない写真ばかりだと思います。
でも、同じ団地に住んでいた友人もこれを見ると思います。なので、団地の周りの様子なども少し追加しておきます。
極めて私事の記事、読んで頂いてありがとうございました。
大きく成長した木(樹齢50年?) |
この鉄板の下に秘密の宝物を隠した |
シーソーも当時のまま |
滑り台も当時のまま |
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