2017-05-01

ITエンジニアのセンスと技術力(4)

(つづき)

前回までの3回の記事で、問題解決における創造的思考についての位置や役割について大まかに理解して頂けたと思う。

記憶を引き出すにも創造的思考が役に立つが、もちろんエンジニアの問題解決能力には他にも重要な要素がある。たとえばイメージ力だ。
システムの動作を何処まで立体的な繋がりとして頭の中にイメージしているかによって、言葉としては同じものを指していたとしても、その応用範囲は雲泥の差になる。

それは視覚的なイメージだけではない。コンピュータのUIレスポンスの速度であるとか、通信速度の感覚であるとか、あるいは直接UIとは関係の無い、動作の確実性の感覚だったりもする。

新たな物事を理解するとき、単に一面的に「知る」だけで満足してしまうのか、その属性や特徴を必要ないくつかの視点から関連づけを行うように理解しておくか、イメージ力とはそういった違いにも現れてくると思う。

視覚を含む感覚的なイメージは言語的な記憶から直接導き出すことは難しく、創造的思考から呼び覚まされるものではないかと考えている。少なくとも、切っても切れない深い関係があると思う。


ここに来て、やっと「センス」(感覚)という言葉が出てきた。
創造的思考力というものがあるとすれば、それはセンスのあり方によって大きく左右される。そしてそれは問題解決能力や技術力に係わる。

センス、そして創造的思考。問題解決に飛躍的な力を与えてくれる能力だと思う。


創造的思考にセンスが必要なことは見えてきたが、センスを最初から持っていなければならないのだろうか。生まれ持った才能で、これがない人は諦めなければならないのだろうか。

僕は必ずしもそうではないと思う。今の日本のアカデミックな教育体系の中で学ぶことには期待できないが、そういったセンスを身につける教育方法というものは必ずあるはずだと思う。しかし、そんな教育法が目の前になくても、実践においてもセンスは常に磨かれていくものだし、それは本人の向上心、モチベーション次第だと思う。

知識を学ぶのは得られた魚をもらうだけに過ぎない。魚を釣る方法を学ぶこと、それは考え方を学ぶことであり、それができれば、自ら能力を高めていくことができる。
センスを磨く、その原石はどんな人間だって生まれながらに持っていたわけではないはずだ。幼少時からの体験で、たまたま興味を持った事柄から偶然に学び取ってきたものかも知れない。大人になってからはそれらを意識して学べばいいだけの話だと思う。

一番良くないのは、日本の知識偏重主義に毒されてしまうことだ。これは、多くの管理者やその立場にある組織が暗黙のうちに前提とする主義であり、人を人としてではなく、個性のない部品や労働力としてしか見ようとしない。その場合、この主義は管理の都合上大変便利なのだ。

もっと端的に言えば、そのような管理者は技術者が素人であること前提にしている。

素人を前提にしている管理に甘んじ、向上心を持たずに現場で漫然と不毛な作業ばかりしている技術者が多いと感じられるのは、日本の「考えない」教育方針と関係が深いのかも知れない。

(終わり)


2017-04-28

ITエンジニアのセンスと技術力(3)

(つづき)

いよいよ創造的思考について考えてみよう。

創造という行為は、何もないところから突然の閃きによってすばらしいアイディアを生み出すといった、つかみ所のないもののように思われがちだ。
事実、あるシンガーソングライターなどはそれを「降りてくる」と表現する。天の神から授かるようなイメージだ。

閃きというのはスーパーコンピューターのように、あるいはそれを超える処理能力に匹敵する素早い思考が脳の中で起こるため、本人でさえ天から降りてくるように感じるのかも知れない。

※しかし、スーパーコンピューターに喩えるのは過言かも知れない。本当は閃きが起こる前の思考プロセスに時間がかかっていても、錯覚によりそれが一瞬だったように感じてしまうのではないか。
思いついた瞬間に特別な興奮が脳内に発生し、直前まで悩んだ時間のことを忘れてしまうような気がする。

では、本当に何もない全くの無から何かを生み出す力を、人は持っているのだろうか?

創造や発明など、確かに世の中になかったものを生み出すことがある。しかし、脳の活動として本当に何もないところから突然思いつく訳ではないと思う。

そして、ここが大切なのだが、世の中に存在しなかったものを生み出すことだけが創造ではない、ということだ。
他人から見て突拍子もなく、常識や既成概念から外れていればいるほど目立つわけだが、目立たない小さな創造もたくさんある。

では、小さい創造とはなんだろう?
その1つは、

 「矛盾する組み合わせを合理的、かつ高い次元で解決する。」

という問題解決を行う思考ではないだろうか。

「高い次元で解決する」という点に飛躍があり、平たく言えば発想の転換が必要で、その飛躍を思考のプロセスとして更に分析して分解することは難しく、不可能な場合もあるだろう。

現時点ではまだ確信が持てるほどの結論ではなく仮定とするが、定義を

「創造とは問題の解決策を考案するための思考のプロセスで、それ以上細かく分解できない飛躍的な思考を伴うもののこと」

としたい。


前回の記事で、過去の記憶を引き出すタイプとして2つ挙げた。

  • 単純なインデックスを脳内に作るタイプの人は、同じ記憶を比較的直線的にしか引き出すことができず、知識の応用範囲が狭い。
  • 縦横無尽に様々に関連づけられたインデックスを脳内に作る人は様々な知識を応用的に引き出すことが可能。

そして、最初の記事ではエンジニアを、

主に直感を働かせ、そこから論理的な問題の解を導き出すタイプ」と
知識の中から答え見つけて導き出すタイプ」に分類した。

前者の直感優先タイプのエンジニアの場合、その直感、すなわち創造的思考を伴う場合であっても、結局のところ知識の中から答えを見つける行為が伴っていると言えるのではないだろうか。
創造は結局のところ自分の中にある知識の組み合わせなどにより行っているからだ。

話がややこしくなってしまったが、最初の記事の分類は、直感タイプが知識タイプを完全に含んでしまっているという意味で不適切だったということになる。



知識の引き出し方、引き出した知識の利用の仕方、そこに差異の本質があり、その差異の中に創造的思考が含まれるか否か、そこに重要な違いがある。

最初の記事でのエンジニアのタイプ分けは、

  • 問題の解決において創造的思考を働かせる(働かせようとする)タイプ(A)
  • 問題の解決において創造的思考を働かせない(働かせようとしない)タイプ(B)

と分類し直した方が良さそうだ。



(つづく)

2017-04-22

ITエンジニアのセンスと技術力(2)

(つづき)

ICTやエンジニア、技術力といった世界観の中で、創造という言葉に違和感を覚える人は多いかもしれない。創造というのはどこか神秘的で曖昧な印象があり、論理性とは正反対の言葉のようにも感じられるからだ。

しかし、実のところ創造的思考は問題解決能力の鍵を握っているのではないか、と考えている。

ところで、ここでいう「問題」とは必ずしも負のイメージのものだけを指しているわけではない。たとえばお客さんから案件を頂き、それをどのようなシステムで実現するか。という案件そのものも広い意味で問題ととらえる。我々はそれに対して問題解決(ソリューション)を提供する。

こうした問題というのは毎回新しい。過去と全く同じ問題に出くわすことは非常に希だ。
なので、単純に過去の事例から完全な解決策を得られることも希なのだ。

さて、ここからやっと創造的思考の出番、というタイミングだが、もう少し過去の事例から答えを得る方法、あるいは、過去の事例からヒントを得る方法について考えていきたい。

過去の事例を引き出すこと、これは記憶を引き出すという意味ではデータベースエンジンに喩えることができる。ご存じのように、データベースではインデックスの設計が性能を大きく左右する。これを人の思考プロセスに当てはめてみる。

  • 単純なインデックスを脳内に作るタイプの人は、同じ記憶を比較的直線的にしか引き出すことができず、知識の応用範囲が狭い。
  • 縦横無尽に様々に関連づけられたインデックスを脳内に作る人は様々な知識を応用的に引き出すことが可能。

これはなにも人それぞれの違いだけではなく、同じ人でも物事を記憶するときの感じ方、理解の仕方によって知識ごとに違ってくる。記憶の仕方でインデックスの作られ方が違うのだ。
おそらく、知識はそれを頭の中に作るタイミングが一番大切だが、後になにかの刺激で他の知識と関連づけられることでインデックスの質を高め、記憶としての価値が高まっていくという事もあるだろう。
その意味でも普段から考える、ということはとても重要なのだと思う。それが、学習の本質なのかも知れない。

話は逸れるが、日本の記憶力重視の勉強の、いかにそれが質の悪いものなのか、ということはこういったことからも理解できる。

(つづく)

2017-04-10

ITエンジニアのセンスと技術力(1)

ICT(IT)エンジニアに資質というものがあるとするなら、それはどんなものだろうか。

ICTエンジニアは、ざっくりと2つのタイプに分けることができる。
1つは主に直感を働かせ、そこから論理的な問題の解を導き出すタイプ。
もう1つは知識の中から答え見つけて導き出すタイプ。

もちろん、これらのどちらか一方の方法だけでは問題解決の幅に限界があり、そんな人がいたとしてもプロの現場には存在できない。しかし、問題に突き当たったときの最初のアプローチとしてどちらを優先させるか、という考え方の癖のようなものがあって、そこでタイプ分けは可能だと思う。

ところで「直感」というと、ICT技術者に必要とされる論理的思考に相反するのではないか、と考える人もいるだろう。しかし、論理的思考を組み立てるためには度台となる情報が必要で、その最初のアプローチとして問題解決に一気に近づき、効率よく思考するために大切な脳の活動だ。

直感、あるいは勘という脳の働きは、人間の右脳が主に司ると聞いている。この右脳的な思考は一般的なコンピュータの処理能力に換算するととてつもなく大きく、まだまだ真似はできないらしい。
一方、知識を検索するという単純な思考の場合、むしろコンピュータの方が遙かに優れた能力を発揮する。

人間が仕事を行っているのだから、この直感や勘を働かせないのはもったいない。もっと言えば、知識だけに頼る思考はそのうち(いや、一部は既に)コンピュータに取って代わられてしまう。

複数の矛盾する問題を高い次元で一気に解決する、これは創造的思考と言ってもいいが、これを行うには右脳的な脳活動が不可欠だと思う。

人の存在価値が最も高まるのは、この創造的行為ではないだろうか。

(つづく)

2016-06-28

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2015-02-22

一眼レフカメラの最大の欠点

今、手元にあるデジカメはNikonの一眼レフD70、それからミラーレスがSONY NEX-5N(+電子ビューファインダー)とPanasonic DMC-GH4の2台です。

このNikonからSONYに持ち替えたとき、一番良かったこと、それが逆に言えばミラー一眼?の欠点でもあると思うのです。

ミラーレスの場合、ファインダーを覗いたままシャッターを切れば、即座にその結果をファインダー内で確認することができます。動いているものなどのブレ具合なんかもすぐにチェックできるわけです。

ミラー一眼では撮影した結果を確認するのに、いちいちファインダーから目を外し、背面のモニターを見なければいけません。しかも、明るい場所ではよく見えないし、見えても画質が悪く、フォーカスまで短時間で確認することはとても難しい。

大げさに言えば、このことはフィルム時代に完成された一眼レフカメラのスピリットを裏切るものだと思うのです。
目で見えるものがそのままフィルムに感光される、というスピリットですが、デジタルになった場合撮影するものとその結果の同一性までその思考は拡張されるべきです。
フィルムはあとで現像しなければそこまで確認できませんから、カメラに対する要求も一眼レフカメラで十分だったと思います。しかし、デジタルになれば撮影した結果はその場で見える訳ですから、撮影しようとすることとしたことを確認できて当然、と考えます。

一眼レフで撮影するとき、シャッターを切るたびにファインダーから目を外し、背面のモニターを確認するというのはとてもかっこわるくも感じられます。非常に完成度が低い方式と言っても過言ではないと思うのです。

じゃあ、全部ミラーレスにしたらいいのか? 将来はそうなるはずだと思うのです。でも、開発されたミラーレスはおもちゃのようなものばかり。本気のものはありません。特にCanonやNikonがそういう扱いでしか作っていない。

技術的な欠点を指摘する人もいます。まず、電子ビューファインダーの解像度。本当ですか? 現状発売されているミラーレスの電子ビューファインダーはフォーカスを確認するのに問題を感じることはほとんどありません。少なくとも僕の場合はそうです。しかも、フォーカス確認をアシストするピーキングという機能まであるのです。
更に、暗くて肉眼では見えないようなシーンも、ノイズは乗りますが確認することだってできます。

もう1点問題があるとすれば、常にセンサーを起動しているために、発熱処理の問題があり、撮影の瞬間だけセンサーを駆動する場合より不利になる、ということでしょうか。
でも、これだってミラーレスだからといって無理に小型化なんかしなければ放熱も何とかなると思われます。

ミラーの仕組みは複雑で高度な技術、ミラーレスは作ることができても、ミラー一眼カメラを作るメーカーは限られています。だからメーカーはその技術を手放すのが怖いのかも知れません。
もっといえば、古い技術に固執しているということではないでしょうか。それを手放すことでメーカーとしての差別化が難しいと。

もしそんな考えがあるとしたら、時代遅れの堅物として葬り去られるのも時間の問題ではないでしょうか。

もし、そんなにレンズの生の光を見たいなら、更に複雑な機構になると思いますがファインダー内部で撮影結果を確認できるような仕組みを追加的に作り込むことではないでしょうか。
しかし、この折衷案のような方法は無駄な苦労に終わる可能性が高いかも知れません。やっぱりミラーなんか要らなくて、その分マウントの自由度も高くなり、よりレンズ設計の自由度も増すわけですから。

そうそう、レンズ設計についても、ミラーのためにセンサーまでの距離が長いという制約の中で培った技術も、もしかしたら手放せないのかも知れません。
ただ、フルサイズセンサーのミラーレスを作っているSONYなんか見ていると、バランスのいいレンズを作れないでいるように見えます。高額で性能はそこそこしかないレンズばかりという印象で、そんなレンズしか選べないSONYのカメラにあまり魅力を感じないのです。SONYには無理をせず、APS-Cサイズでの高級機を目指して欲しかった。

仮に今すぐフルサイズのミラーレスをNikonが作り、マウントもミラー一眼と同じものであったなら、僕は迷わずそのカメラを選ぶと思います。欲しいレンズがいくつもあるからです。


一度ミラーレスカメラという道具に馴染むと、撮影データを確認するためにいちいちカメラポジションを移動させなければならない不格好なカメラには戻るのが嫌になります。
SONYのカメラでNikonのレンズを使えたら(オートフォーカスも手ぶれ補正も全てネイティブのように動作することが条件)今のところベスト、理想だと思うのですが。

メーカーさんにこの想い届いて欲しいな~


あ、Canonを話題にしていませんが、今までたまたま出会いがなかっただけですので・・・



2014-10-07

表現の欲求

実は10年前に初めて書き始めたBLOGのタイトルは「表現するために」でした。
自ら、最も興味のある「表現」ということについて、日々感じたことを様々な視点から、いや、悪く言えばでたらめな観点から感情の赴くままにすべて書いていたのです。

「表現」は人間の根源的な欲求だと思っていました。厳密にはコミュニケーションの一方を示す言葉ですが、受け取る側がなければ成立しないという意味で、むしろコミュニケーションという意味で根源的な欲求であると。

では、なぜコミュニケーションではなく表現なのか、それは、主に受け取り側が大衆である場合を想定していたからです。当時、インディーズのJ-POPアーティストのそばにいてミュージックビデオやライブ映像を制作する活動をしていたので、そんな環境から得られる話題を中心にしたということでもあります。

もちろん、映像だって不特定多数を相手にするものを制作していたのですから、自分自身の表現欲についても当然のことながらそこには含まれていました。

アーティストにせよ、役者にせよ、映像制作にせよ、大衆に向けての表現活動にある根源的な欲求というのは、1対1のコミュニケーションとは違い、大勢の人に認められたいという強い承認欲があると思います。

他人に認められることには、脳にとてつもなく大きな快楽をもたらすことが知られています。その快楽を一度知ると、それは強烈な麻薬同様に再度得ようとする、つまり、人間の行動を支配してしまうのです。これに逆らえる人はなかなかいないのではないでしょうか。

更に、そんな行動は麻薬と違って基本的には人に迷惑をかけません。人に褒められたいのだから当然です。


ところで、唐突ですが人はなぜ存在するのでしょうか。人はなぜ生きるのでしょうか。
そして、そのことと表現欲との関係は?

結論からいうと、どうも人が生きる目的と直接的な関係はないのではないか、と思うようになりました。
コミュニケーションが不要だといっているのではありません。人間は他人と一切関わらずに生きることはできませんから、どんなものであってもコミュニケーションは必要です。でも、当然ながらそれは手段に過ぎません。

人との愛を育むためにもコミュニケーションは必要です。苦しみに耐えるときだって、人の助けが必要です。

だけど、大衆に向けての表現やコミュニケーションで愛が生まれることは希だと思うし、歌に助けられるほどの苦しみはそれがなくても乗り越えられるものが大半だったりするのではないかと思うのです。

大衆に向けての表現は通常娯楽でしかないのではないかと考えます。
もちろん、だからといって不要であるとか、重要ではないということでは決してありません。

しかし、そのような表現をせずとも幸せに、あるいは苦難を乗り越えて生きている人も大勢いるといこと、そして、そういった一見平凡な人生を歩むことも立派な人生である、いや、むしろそんな人生の方が立派ではないか、とさえ考えるようになりました。

この考え方はまたすぐに変わってしまうかも知れませんが、書いてみました。